どんなときもじぶんを信じることが、あなたにはできるだろうか。
すべてがうまくいってると感じるとき、それはむずかしくない。
でも、そうでないとき、あるいは、苦しくはなくても、そこまでの感じがないとき、それでもあなたは自分を信じられますか?
じぶんを信じぬくって、じぶんに対する圧倒的な愛の表現なのかもしれない。
どんなときもじぶんを信じる、それは、健やかなるときも病めるときも、じぶんに寄り添い、自分を愛し続けることだから。
昨年夏、慈愛/慈悲について、友人とやりとりする中で、こんな文章を作った(おろした)
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慈悲とは、目の前で悲しんでいる人がいれば、いっしょに悲しむこと、苦しんでいる人がいれば見守ること。
楽しいこと・嬉しいことだけをわかりあったり、響きあったりすることではない。
温かく見守る母のように、自己に対する絶対的な信頼感をもとに、じぶんの位置に立ち続ける。
そして、必要があればともに悲しむ。なぜなら、悲しみは、わかり合う人がいるだけで、救われることがあるから。
苦しみとは、進化のプロセス。
じぶんを次のステージへと持ちあげる。
だから、決して、己から手を差し伸べることなかれ。
相手への絶対的信頼をもって、相手が自分で立ち上がれるのを、ただ、待ち続ける。
わたしは、ここにいる。
いつでも手を広げて、待っている。
あなたには、それができるから。
慈悲・慈愛は、同じものをどう切り取ったか、その見方の違い。
あなたは慈愛でいなさい。
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じぶんを"心配"しないでほしい。
心配も、言葉を変えた、"じぶんを信じられない"、だから。
誰かのことも、もちろん心配しないで。なぜなら、"だれか"は存在しないから。
あなたが、自分への心配を、その"だれか"に投影して、観ているだけだから。