2015年に会社を辞めた後、一人暮らしを続けていたとき、実家に帰るという選択肢が全く浮かばなかった。もうちょっと早よ帰ってりゃ、家賃の何ヶ月か分でもっと遊べたのにと思うけど、浮かばなかったんだから仕方ない。
それが、2017年の年明けを迎えて、なんや帰ったらええんやとふと思った。それまで何かに囚われていた。もう忘れたけれど、それが外れたのがその時だった。
うまい具合に、実家に住んでいた弟が転職で家を出ることになり、1階の貸店舗に借り手が見つかって実家にも少し余裕ができたりして、タイミングも合った。だから結局このタイミングやったんやろうと思う。
実家暮らしになっても、相変わらずわたしは、行きたい/行くと感じるまま、国内を母と旅した。でも気づかないところで、罪悪感が少しずつ溜まっていた。気づいたら外せるのに、わずかな埃のように積み重なっていたようで、今年になるまでわからなかった。
社会的に仕事をしているわけではない、家事もするわけではない、それなのに、欲しいものを買ってもらったり、好きに旅行したりする。それは、じぶんの心にしたがった結果だったけれど、そしてそれでもちろん幸せだったけれど、深いところでそんな自分を受け入れてはいなかった。
一人暮らしのときも似たような気持ちに向き合った。仕事をしていないことで、自分の価値を見出すのがむずかしかったから。特にわたしにとっての仕事は自分を100%注ぐところで、生きるということのほぼ全てだったから。
でも、ああ、こうやって息をして生きているだけで、それだけで価値があるんだ、わたしはこのままでいいんだ、と心から思えるようになっていった。一日中部屋のベッドの上で寝転がってたり、スマホでゲームしたりしてたって、いいんやと。
でも、実家に戻って、親という他者(自分以外の人)がいる中で、"価値"というテーマはまたわたしに知らず知らず問いかけていた。しかも今回は生活のすべてが、おんぶに抱っこ状態。何もしない自分を肯定できる要素はない。
わかりやすく、親がわたしを非難してくれたり文句を言ってくれれば、自分を肯定していない自分に気づきやすいけれど、彼らはただわたしを受け入れてくれていた。内面的な葛藤があったかもしれないけれど、わたしにそれをぶつけることはなかった。
ただそこにいるだけでいい、何をしてもしなくてもいい、そんな状況は、現実は、"価値"を越えて、わたしに"愛"を教えてくれていた。わたしはわたしのままでいいんやと、それだけで尊いんやと、その想いは、自分を全肯定する気持ちは、一人暮らしのときよりさらに強く感じるようになった。それはもちろん両親からもらった愛。同時に、わたし自身のわたしへの愛でもある。
多かれ少なかれ、この"じぶんの愛"というのは、見失いやすいと思う。家族や恋人や友人をたいせつにしたり愛したりできても、自分をたいせつにすることを忘れてしまいがち、あるいは後回しにしてしまう。誰かに尽くすのではなく、まず自分自身に尽くすこと。だって、あなたが心からの幸せに満ちるから、あなたの周囲にそれが拡がる。
“やりたいことをする”、それは自分に都合よく捉えられるかもしれないけれど、徹底しようとすると何かと壁にぶつかる。内面的なものしかり。でもそれは、自分の心を本当にたいせつにすることであり、自分自身を慈しむことにつながる。わたしたちは誰でもただそこにあるだけで価値がある、から。