お気に入りの白いプリーツスカートが汚れたので、洗うことにした。まだおろしたばかりなのに、あちこち楽しく歩いて裾を踏んづけたりして黒く汚れてしまったので、その汚れのところを部分洗い。
きれいになーれって言いながら、歯ブラシでこすっていたら、悦びが溢れた。黒ずんでたところをきれいにするのは幸せだった。
実家に戻ってからは母が家事を担ってくれるので基本はお任せ/お願いしてるけれど、今回は自分でやりたいと思ってその気持ちにしたがった。そうしたら、洗濯も愛なんだと感じた。
この世はすべて愛で、ひとつの例外もなく愛でできている。そんな、言葉にしたら陳腐なことを、日々いろいろなところで感じる。
今回の洗濯もまさにそう。
汚れを落とすのも愛、そして汚れるのも愛。なぜなら、汚れてくれないと、汚れを落とす、ということを楽しめない。だから、汚れてくれてるんだと感じた。
でもそんなことを言いつつ、途中から、汚れを落とすことに執着し出す。
なんで落ちへんの、とか、なんで白くなってくれへんの、とかになってきて、このままいくと楽しい🎵どころかイライラし出しそうな雰囲気。
そこで一呼吸。あれ、汚れが落ちて楽しい〜🎵はどこへ?、最初そこから始まったはず、と心を落ち着ける。
なんでこの汚れ落ちへんねん!っていうのは怒り、うまくいかない/コントロールできないことへの腹立たしさ。
これ、本来のわたしたちにとっては超快感。なぜなら、本来のわたしたちは何でもできちゃうから、それを体験しにきてる。うまくいかないって意味わかんないから。
でもわたしはもうそういうのはいい、本来のじぶんで生きたいから。このブログを読んでる人も同じはず。
だから、胸/心臓に手を当て、今はどうしたいかじぶんに聴いてみる、今の想いを確認する。
わたしはもう少しやってみたかったので続けたけれど、やりたくないなら、そこで信頼する洗濯屋さんにお任せ。クリーニング店でも家で家事を担っている人でも、頼みたい人にお願いする。
そうすると、もう、洗濯を担当してくれる人には感謝しか湧かない。きれいにしてくれて、美しくしてくれて、本当にありがとうって気持ち。
そして、本当にそれを担当する人っていうのは、それをすることが心からの悦び。
それがもし洗濯なら、なんで落ちへんの!とか思わない。むしろ燃える、どうやって落としてやろうか🎵って。
セリフはその人のキャラによるけど、とにかく汚れを落とすのが楽しくて仕方ない。だから、誰に言われなくても、集中しちゃう、熱中する。まさにゲームや遊びと同じ。
そして仕事が丁寧。わたしはよく、「わたし大雑把やからな」と言っていた。でもそれは単なる言い訳だったと、洗濯しながら感じていた。
大雑把っていう言葉で、行為や対象に対して想いを注いでいないことを正当化していた、ごまかしていた。
今回、愛を注ぎながら、白いスカートの汚れを落とすことは、とても心地よかった。
スカートは真っ白になったわけでも、したわけでもない。でも、またこれを着てお出かけしたいと思う白いスカートになってくれた。
そして、季節が終わってスカートをしまう頃にはもちろん、洗濯を愛する洗濯屋さんにお任せしたいと思う。